ほんのり熊野観光 4
熊野史跡見聞録 2020-11-22訪問 2021-1-23
緊急事態宣言ですね~
三重県のコロナ感染者も徐々に、着実に増えています><
昨年、まだコロナが落ち着いていた頃、県内でお出かけしてきました。
この時は熊野方面はコロナの発生件数0。
喪中なので神社は行けないので、ずっと昔に行った観光地へ
久しぶりに行ってみることにしました。
コース
鬼ケ城→松本峠(熊野古道)→鬼が城→オレンジロード→平尾井薬師→
丸山千枚田→赤木城跡→大丹倉
緊急事態宣言ですね~
三重県のコロナ感染者も徐々に、着実に増えています><
昨年、まだコロナが落ち着いていた頃、県内でお出かけしてきました。
この時は熊野方面はコロナの発生件数0。
喪中なので神社は行けないので、ずっと昔に行った観光地へ
久しぶりに行ってみることにしました。
コース
鬼ケ城→松本峠(熊野古道)→鬼が城→オレンジロード→平尾井薬師→
丸山千枚田→赤木城跡→大丹倉
熊野の沿岸部から山間部の方へ入って行きます。
とにかく、どこへ行くにも峠を越える山深い所です。
まずは丸山千枚田。
日本の棚田百選にも選ばれた棚田です。

もちろん稲は刈り取った後ですが、とてもキレイだったんですけどねぇ。
この写真はあんまりキレイには見えないです、残念ーー;
ここも30年ほど前に来たことがあります。
その時に千枚田荘に宿泊しました。
千枚田の下の方にある屋根が千枚田荘です。
宿泊した夜、千枚田を散歩したいと言った私に宿の人が「何も見えないよ」と
言ったのを「見るものがない」と解釈しましたが、いざ、外に出てみると、
本当に何も見えないんです。真っ暗なんです。
上の方に民家の灯りがちらっと見える程度です。
この時、本当の闇を知りましたーー;
後に、この近くの出身の人と話した時、その人は
「でしょう~、暗いんじゃなくて黒いのよ~」と言ってました。
なるほど、その通りです。
もうちょっと目が慣れたら、多少は見えたかもしれませんけど。

これは千枚田の途中にある展望所からの景色です。
当然ながら土地が狭いので、展望所もとても狭いです。
車は5台ほど停められますが、この日は満車でちょうど空いたので停められました。
千枚田の美しい写真を撮るには棚田の中にいては撮れないですよね~

この場所は千枚田の真ん中あたりで、上の方にはまだまだ棚田があります。
民家もあります。
約400年前には2240枚の田畑があったいう記録が残されています。
しかし、平成初期には後継者不足等により530枚まで減少していました。
平成6年に「丸山千枚田条例」と言うのが制定され、
地元住民らの協力により復田作業が行われ、
現在は1340枚の棚田が維持保存されています。
そして丸山千枚田オーナー制度が実施され、
毎年100組を超えるオーナーが登録しているそうです。
いにしえの景観を残すのは大変です。

毎年6~7月に虫送り行事が行われ、棚田に1300本余りの火が灯され
幻想的な風景が広がります。
TVニュースでは案山子コンテストもやっているのを見ました。

(虫送りの画像)
これも地元の方々の努力ですね。
丸山千枚田 熊野市紀和町丸山
次は赤木城跡です。
赤木集落は地図で見ると丸山千枚田から5km弱で隣の村です。
道も良いし、山を越えるって程でもないのですが、やっぱり、山の中を走ります。
ちょっと道を間違えて20分弱で着きました。

昨今の城ブームで、赤木城も知名度は上がっていると思います。
しっかり整備され、駐車場、トイレ、東屋も完備です。
3組ほどの観光客がいました。

赤木城は山の中の城なので、霧が発生することがあります。
朝霧に浮かぶ姿が幻想的で天空の城と言われています。
近くには風伝峠と言う霧が山を伝って下りてくる名所があります。
どちらも条件が整わないと見れない幻の風景です。

赤木城由来。
天正17年(1589)ごろ、藤堂高虎によって築城。
この地は北山街道と十津川街道が通る交通の要衝で、
また木材、鉱物なのど資源も豊富な所です。
天正17年(1589年)頃の一揆勢力を抑える為、豊臣秀吉の弟の秀長の命により
藤堂高虎によって築城されました。

あら~これは読めない~
なんで一揆が起こったかと言いますと、熊野は南北朝時代より
地元の多くの土豪が勢力を持っていました。
天正13年(1585年)の秀吉の紀州攻めの後、紀伊国の平定を命じられた弟の秀長が
検地を始めますが、地元の土豪衆は反発し天正の北山一揆が起こりました。
秀長は一揆を制圧し、睨みを利かせる為に赤木城築城となりました。

あまり大きくないお城のように思います。
私のイメージする華麗な城よりは要塞のようなお城だったのかな?

鍛冶屋があったんですね~
お城の知識はほとんどないので、よく分かりませんが、
お城に鍛冶屋は付き物なんでしょうか?

藤堂高虎はこの赤木城に11年間、滞在したそうです。
どこに住んでいたんだろう?

門があったそうですが、知識が乏しく当時の姿を想像できません。
だれか想像図を教えてください。。。

赤木の村。城下町とはとても言えないですね。
赤木城は元和元年(1615年)の一国一城令により廃城となったので、
それ以来、農村なんでしょうね。

慶長19年(1614年)の12月に再び北山一揆が起こり、総勢およそ3000人が新宮城に
侵攻しようとしたが壊滅し、363人が処刑されました。
その後、160人の残党がとらえられ、田平子峠(たびらことうげ)で斬首されました。

田平子峠は西に1kmほど行ったところにあります。
前は通ったんですが、その時は知らなくて通り過ぎてしまいました。
供養塔などがあるそうです。

こうやって見ると赤木集落もなかなかの棚田です。
丸山ほど大きな棚田群はないですが、この辺はどこへ行っても
棚田を見る事ができます。
そのうち、消えてしまうのかな・・・保護しないと残すのは難しいかも。

一番高い所からは隣の村が見えます。
その向こうの折り重なる山々は紀伊山地です。
熊野本宮があって、高野山があって、もっと向こうは和歌山かな?
方向が違うかしら?

私は暢気に遠くを眺めてますが、
「行たら戻らぬ赤木の城へ、見捨てどころは田平子じゃ」
と言う歌が残るくらい厳しい処罰であったそうです。
赤木城跡 熊野市紀和町赤木字城山
次に行くのは大丹倉(おおにぐら)です。
でっかーーーい岩です。

ここに何があるわけでもないのですが、なんか行きたいと思いました。
高さ300mの巨大な岩です。
「丹」は赤、岩の鉄分が酸化して所々赤く見えるから。
「倉」は断崖絶壁の山のことです。
大丹倉までがね~峠だらけで、県道なんだけど林道のような道でした。

赤木城跡から県道40で育生集落まで北上し、県道52で南下して、
途中から赤倉林道に入って終点が大丹倉です。
大丹倉へはここに車を停めて歩いていきます。
驚くことに他にも車が停まってます。

途中に丹倉神社がありましたが、喪中なので涙を呑んで通り過ぎました。
案内にあるように穴山関所跡もありました。
立札があっただけだったので、通り過ぎました。
昔、この道は街道だったそうです。
なのでこの先は育生集落に続き、熊野本宮まで行っていたそうです。

興味深い説明書きがありました。
熊野天狗鍛冶の発祥の地ですって。
ただの鍛冶屋じゃなくて天狗って所がただ者じゃないですね。
ここは修験の行場でもあったそうです。

林を抜けて行きます。

道中は苔が生えてていい感じなんですが、
まわりは植林されてしまって風情は0です。
文禄の頃(1592~96)、丹倉の山守をしていた近藤兵衛という人が住んでいました。
彼は武士で修験者で鍛冶師でありました。
夜になれば大丹倉の岩壁にこもり、荒行を行っていました。
その神出鬼没の行状から、里人は彼を天狗さまと 畏敬するようになったそうです。

屋敷跡も多少の平地あるくらいです。
でも、ここに何かあったなって感じはします。
近藤兵衛は矢の根鍛冶を得意とし、新宮の権太吉久に伝授します。
吉久は天狗吉久と名のり、度々秀吉に矢の根を献上しました。
熊野の歴史民俗資料館には、「天狗吉久銘の槍」が展示されています。

さて、もう少し登るといよいよ大丹倉です。

地質的な説明があります。
え-っと火成岩だそうです^^;

高倉剱大明神。
この下に行者が残していった剣が納められているそうです。

この岩が大丹倉です。
これを登ります。結構な傾斜であります。
なんと、この岩を赤ちゃんを抱っこした若夫婦が下りてきました。
すごく良い景色でしたよ~と元気に去って行きました。

必死でなるだけ先端へ行きました。
もう、足元からゾワゾワします。
この高さの恐怖は伝わりませんねーー;

景色は凄いです。
人工物が一つも見えないってなかなか無いですよね。

同じような写真に見えますが、これは私が決死の覚悟で
下を覗き込んで撮った写真です。
さっき通って来た川沿いの県道が谷底の方に見えます。
大峰山の修行の「西の覗き」に匹敵するんじゃないかと思います。
うちの娘は這いつくばって、かなり覗き込んでおりました。

若さって凄いな~高さにも慣れたようで、先端の方で景色を楽しんでおります。
私はだいぶ奥の方で写真を撮ってましたが、
吹き上がる風に乗って空が飛べそうな気がしてきます。
飛んだら確実に死ぬんですけどね。ちょっと死を身近に感じます。

岩から下りてから、なんとか絶壁を撮れないかと、
こちらもかなりの傾斜の斜面を木に伝って下りて撮りました。
木が邪魔なんだけど、木が無かったら私は滑り落ちて奈落の底です^^;

車に戻ったら、先ほどの若夫婦の車がまだ停まっていました。
徒歩25分の表丹倉に行ったのかな?
先ほど、調べていて知りましたが、大丹倉のどこかに
「天空の亀」と言われる空中に突き出た亀のような岩があるそうです。
丹倉神社も行ってないし、もう一回来てもいいかも。
大丹倉 熊野市育生町赤倉
さすが熊野。歴史が深いです。
社寺は一つしか行けなかったけど、楽しかったです。
<< 熊野3 平尾井薬師 ほんのり志摩観光 >>
とにかく、どこへ行くにも峠を越える山深い所です。
まずは丸山千枚田。
日本の棚田百選にも選ばれた棚田です。

もちろん稲は刈り取った後ですが、とてもキレイだったんですけどねぇ。
この写真はあんまりキレイには見えないです、残念ーー;
ここも30年ほど前に来たことがあります。
その時に千枚田荘に宿泊しました。
千枚田の下の方にある屋根が千枚田荘です。
宿泊した夜、千枚田を散歩したいと言った私に宿の人が「何も見えないよ」と
言ったのを「見るものがない」と解釈しましたが、いざ、外に出てみると、
本当に何も見えないんです。真っ暗なんです。
上の方に民家の灯りがちらっと見える程度です。
この時、本当の闇を知りましたーー;
後に、この近くの出身の人と話した時、その人は
「でしょう~、暗いんじゃなくて黒いのよ~」と言ってました。
なるほど、その通りです。
もうちょっと目が慣れたら、多少は見えたかもしれませんけど。

これは千枚田の途中にある展望所からの景色です。
当然ながら土地が狭いので、展望所もとても狭いです。
車は5台ほど停められますが、この日は満車でちょうど空いたので停められました。
千枚田の美しい写真を撮るには棚田の中にいては撮れないですよね~

この場所は千枚田の真ん中あたりで、上の方にはまだまだ棚田があります。
民家もあります。
約400年前には2240枚の田畑があったいう記録が残されています。
しかし、平成初期には後継者不足等により530枚まで減少していました。
平成6年に「丸山千枚田条例」と言うのが制定され、
地元住民らの協力により復田作業が行われ、
現在は1340枚の棚田が維持保存されています。
そして丸山千枚田オーナー制度が実施され、
毎年100組を超えるオーナーが登録しているそうです。
いにしえの景観を残すのは大変です。

毎年6~7月に虫送り行事が行われ、棚田に1300本余りの火が灯され
幻想的な風景が広がります。
TVニュースでは案山子コンテストもやっているのを見ました。

(虫送りの画像)
これも地元の方々の努力ですね。

次は赤木城跡です。
赤木集落は地図で見ると丸山千枚田から5km弱で隣の村です。
道も良いし、山を越えるって程でもないのですが、やっぱり、山の中を走ります。
ちょっと道を間違えて20分弱で着きました。

昨今の城ブームで、赤木城も知名度は上がっていると思います。
しっかり整備され、駐車場、トイレ、東屋も完備です。
3組ほどの観光客がいました。

赤木城は山の中の城なので、霧が発生することがあります。
朝霧に浮かぶ姿が幻想的で天空の城と言われています。
近くには風伝峠と言う霧が山を伝って下りてくる名所があります。
どちらも条件が整わないと見れない幻の風景です。

赤木城由来。
天正17年(1589)ごろ、藤堂高虎によって築城。
この地は北山街道と十津川街道が通る交通の要衝で、
また木材、鉱物なのど資源も豊富な所です。
天正17年(1589年)頃の一揆勢力を抑える為、豊臣秀吉の弟の秀長の命により
藤堂高虎によって築城されました。

あら~これは読めない~
なんで一揆が起こったかと言いますと、熊野は南北朝時代より
地元の多くの土豪が勢力を持っていました。
天正13年(1585年)の秀吉の紀州攻めの後、紀伊国の平定を命じられた弟の秀長が
検地を始めますが、地元の土豪衆は反発し天正の北山一揆が起こりました。
秀長は一揆を制圧し、睨みを利かせる為に赤木城築城となりました。

あまり大きくないお城のように思います。
私のイメージする華麗な城よりは要塞のようなお城だったのかな?

鍛冶屋があったんですね~
お城の知識はほとんどないので、よく分かりませんが、
お城に鍛冶屋は付き物なんでしょうか?

藤堂高虎はこの赤木城に11年間、滞在したそうです。
どこに住んでいたんだろう?

門があったそうですが、知識が乏しく当時の姿を想像できません。
だれか想像図を教えてください。。。

赤木の村。城下町とはとても言えないですね。
赤木城は元和元年(1615年)の一国一城令により廃城となったので、
それ以来、農村なんでしょうね。

慶長19年(1614年)の12月に再び北山一揆が起こり、総勢およそ3000人が新宮城に
侵攻しようとしたが壊滅し、363人が処刑されました。
その後、160人の残党がとらえられ、田平子峠(たびらことうげ)で斬首されました。

田平子峠は西に1kmほど行ったところにあります。
前は通ったんですが、その時は知らなくて通り過ぎてしまいました。
供養塔などがあるそうです。

こうやって見ると赤木集落もなかなかの棚田です。
丸山ほど大きな棚田群はないですが、この辺はどこへ行っても
棚田を見る事ができます。
そのうち、消えてしまうのかな・・・保護しないと残すのは難しいかも。

一番高い所からは隣の村が見えます。
その向こうの折り重なる山々は紀伊山地です。
熊野本宮があって、高野山があって、もっと向こうは和歌山かな?
方向が違うかしら?

私は暢気に遠くを眺めてますが、
「行たら戻らぬ赤木の城へ、見捨てどころは田平子じゃ」
と言う歌が残るくらい厳しい処罰であったそうです。

次に行くのは大丹倉(おおにぐら)です。
でっかーーーい岩です。

ここに何があるわけでもないのですが、なんか行きたいと思いました。
高さ300mの巨大な岩です。
「丹」は赤、岩の鉄分が酸化して所々赤く見えるから。
「倉」は断崖絶壁の山のことです。
大丹倉までがね~峠だらけで、県道なんだけど林道のような道でした。

赤木城跡から県道40で育生集落まで北上し、県道52で南下して、
途中から赤倉林道に入って終点が大丹倉です。
大丹倉へはここに車を停めて歩いていきます。
驚くことに他にも車が停まってます。

途中に丹倉神社がありましたが、喪中なので涙を呑んで通り過ぎました。
案内にあるように穴山関所跡もありました。
立札があっただけだったので、通り過ぎました。
昔、この道は街道だったそうです。
なのでこの先は育生集落に続き、熊野本宮まで行っていたそうです。

興味深い説明書きがありました。
熊野天狗鍛冶の発祥の地ですって。
ただの鍛冶屋じゃなくて天狗って所がただ者じゃないですね。
ここは修験の行場でもあったそうです。

林を抜けて行きます。

道中は苔が生えてていい感じなんですが、
まわりは植林されてしまって風情は0です。
文禄の頃(1592~96)、丹倉の山守をしていた近藤兵衛という人が住んでいました。
彼は武士で修験者で鍛冶師でありました。
夜になれば大丹倉の岩壁にこもり、荒行を行っていました。
その神出鬼没の行状から、里人は彼を天狗さまと 畏敬するようになったそうです。

屋敷跡も多少の平地あるくらいです。
でも、ここに何かあったなって感じはします。
近藤兵衛は矢の根鍛冶を得意とし、新宮の権太吉久に伝授します。
吉久は天狗吉久と名のり、度々秀吉に矢の根を献上しました。
熊野の歴史民俗資料館には、「天狗吉久銘の槍」が展示されています。

さて、もう少し登るといよいよ大丹倉です。

地質的な説明があります。
え-っと火成岩だそうです^^;

高倉剱大明神。
この下に行者が残していった剣が納められているそうです。

この岩が大丹倉です。
これを登ります。結構な傾斜であります。
なんと、この岩を赤ちゃんを抱っこした若夫婦が下りてきました。
すごく良い景色でしたよ~と元気に去って行きました。

必死でなるだけ先端へ行きました。
もう、足元からゾワゾワします。
この高さの恐怖は伝わりませんねーー;

景色は凄いです。
人工物が一つも見えないってなかなか無いですよね。

同じような写真に見えますが、これは私が決死の覚悟で
下を覗き込んで撮った写真です。
さっき通って来た川沿いの県道が谷底の方に見えます。
大峰山の修行の「西の覗き」に匹敵するんじゃないかと思います。
うちの娘は這いつくばって、かなり覗き込んでおりました。

若さって凄いな~高さにも慣れたようで、先端の方で景色を楽しんでおります。
私はだいぶ奥の方で写真を撮ってましたが、
吹き上がる風に乗って空が飛べそうな気がしてきます。
飛んだら確実に死ぬんですけどね。ちょっと死を身近に感じます。

岩から下りてから、なんとか絶壁を撮れないかと、
こちらもかなりの傾斜の斜面を木に伝って下りて撮りました。
木が邪魔なんだけど、木が無かったら私は滑り落ちて奈落の底です^^;

車に戻ったら、先ほどの若夫婦の車がまだ停まっていました。
徒歩25分の表丹倉に行ったのかな?
先ほど、調べていて知りましたが、大丹倉のどこかに
「天空の亀」と言われる空中に突き出た亀のような岩があるそうです。
丹倉神社も行ってないし、もう一回来てもいいかも。

さすが熊野。歴史が深いです。
社寺は一つしか行けなかったけど、楽しかったです。
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