伊賀忍者回廊 巻之3-玖
百田山不動寺と金刀比羅神社 2018-5-5参拝 2018-5-28
伊賀忍者回廊 三回目の朱印巡り、その九。
本日のコース
鵜宮神社(札所)→正月堂(札所)→西山春日神社→果号寺→
徳楽寺→射手神社→常住寺→百田山不動寺→西蓮寺(札所)→
岡八幡宮(札所)→慈尊寺→花垣神社(札所)・池邊寺→
田守神社(式内)・吉田寺→無量寿福寺(札所)→神戸神社(式内・元伊勢)
百田山不動寺。
裏山に金刀比羅神社があります。
由緒はまったく不明です。
写真は撮ってきたので、それだけでも。。。。
伊賀忍者回廊 三回目の朱印巡り、その九。
本日のコース
鵜宮神社(札所)→正月堂(札所)→西山春日神社→果号寺→
徳楽寺→射手神社→常住寺→百田山不動寺→西蓮寺(札所)→
岡八幡宮(札所)→慈尊寺→花垣神社(札所)・池邊寺→
田守神社(式内)・吉田寺→無量寿福寺(札所)→神戸神社(式内・元伊勢)
百田山不動寺。
裏山に金刀比羅神社があります。
由緒はまったく不明です。
写真は撮ってきたので、それだけでも。。。。
常住寺から300mほど南下した所にあります。
今回は「道が狭い」とばかり書いていますが、ここは本当に狭かったです。
山沿って南北に走る道が昔ながらの道で、その道に沿って民家があるんだけど、
その道から山に向かって入ってきたところに百田山不動寺があります。
分かりにくい説明で済みませんーー;

お寺の境内から撮りました。
道は軽自動車がやっと通れるくらいの幅です。
相方が無理やり境内に車を入れました。
一応、車の轍は付いていたので絶対入ってはダメって訳ではなさそうです。
でも車は長田小学校だか長田保育園の裏辺りにある芭蕉の森公園の
駐車場に置いてくるのがベストだと思います。
その駐車場に行ってないので、どんな様子か分からないんですけどね。

意外に綺麗な本堂です。
創建も由緒もどんな出来事があったのかもサッパリ分かりませんが、
現在も地元の人に大切に管理されているのは分かります。

境内にはちゃんと寺務所もありました。
公民館的な社務所のようです。

味のある扁額。象?〇?山?違うかな?
波のような絵が描かれています。
雲の絵かな?と思ったけど、ヒントは金毘羅さん。
四国の本家の金刀比羅宮があるのが象頭山(琴平山)。
多分、正解だと思う!

どうも、不動さんより先に金刀比羅神社があったと推測。
金毘羅さんは海上航海の御利益だったよね。
伊賀に海はないけどねぇ。
でも、地図を見てると伊賀に限らず山の中に金毘羅神社あるよね。
なんか意味があるんだろうな。
扉の前に「どうぞ、お持ちください」と書かれて、お札が置いてありました。
賽銭箱に心添えを入れて、有難く頂きました。
出来れば由緒書きも欲しかったです。。。

中を覗いてビックリ!とても立派な須弥壇です。天女の絵も見えます。
建立は江戸時代かな?
ご本尊の不動明王は見えませんけどね。
波切不動明王の提灯。
やっぱり金毘羅さんと関係があるようです。

境内にあった灯籠。
変わった形の灯籠ですが、とても大きいんです、この灯籠。
きっと金毘羅さんと関係あると思って本家の四国の金刀比羅宮を調べていたら、
琴平駅の前によく似た灯籠を見つけました。
有形文化財の高灯籠は28mもあり、灯台の役目があったようです。
かなり金刀比羅宮をリスペクトしてます。

金毘羅神社はこの鳥居の先です。
かすかに建物らしきものが見えますので、行ってみます。
この時、相方は私に付き合うのが飽きたようで、見放されました。
仕方なく、一人で神社に向かいます。

鳥居の袂に芭蕉の句碑。
さすが松尾芭蕉のふるさと、あちこちに句碑があります。
松尾芭蕉忍者説がありますよね、情報収集の為に各地を旅したって。
本人が忍者だったかは不明ですが、彼は福地氏と言う忍者の末裔です。
忍者回廊でも所縁の城跡やお寺が載っているので、その内、行きますよ^^v

立派な石製の手水桶。
天保十三年と寄進者の寺田村、百田村の文字が見えます。
他にもいっぱい書いてあるけど、ちょっと読みにくいです。

意気揚々と階段を登り始めたのですが、意外にも急な階段でした。

やっと建物が見えてきました。
片側が竹林であちこちからタケノコが顔を出してます。
地元の人は採らないのかな?

神社らしくない普通の建物です。
老朽化して立て直したけど、資金の都合上、普通になったって感じでしょうか?

裸電球があるだけだけど、絵馬がたくさんあります。

これは多分、和歌の書かれた扇だったと思います。
三十六歌仙?にしては数が足りないね。

慶應の文字が見えます。
橋を見ると牛若丸と弁慶を思い出すけど、ちょっと違うようですね?
弓を持っているけど射手神社は関係あり?

こちらは何かの祭礼の様子かな?
わりと色彩が残っている絵馬があります。

槍で戦う二人の武士。
これから行く岡八幡宮は槍の又兵衛ゆかりの神社です。
これも関係はあるのかな?
昔の奉納絵馬を見るのが好きな私には楽しい参拝です。

本殿も普通の家のようになってます。
でも、小さな祠がポツンとあるだけかな?と思っていたので、
地元の皆さんが頑張っているんだと思いました。
忍者の末裔の方々の結束は今も強いのかも?

中はもうちょっとスッキリ片づけて欲しいかな^^;
多分ですけど、この山も比自山城の一部だと思います。
ここは百田村で、芭蕉の森公園の駐車場の辺りに百田藤兵衛の屋敷跡があります。
百田藤兵衛は伊賀十二人衆の一人で比自山城で、同じく伊賀十二人衆の
朝屋の福喜多将監と共に織田軍に徹底抗戦した忍者です。

百田藤兵衛はどこだか分からないけど、北東側の麓の長田丸で、
南側では福喜多将監が朝屋丸で蒲生氏郷、筒井順慶、堀秀政と戦ったそうです。
織田軍をかなり追い詰めたらしいですが、そこは戦のプロの大軍。
最後には敗戦してしまい、比自山城落城後は住民は残らず惨殺されたそうです。

今も地図を見ていると字で「百田」と「朝屋」があります。
福喜多氏館は現在も末裔の方が住んでおられます。
ちゃんと逃げ延びた人々がいたんですね。
伊賀の人々の転機は本能寺の変で織田信長が死んだこと。
と、それに伴い徳川家康を伊賀越えで助けたこと。

金刀比羅神社から三十三観音めぐりがありました。
出発地点はここだけど、終点はどこだろう?
これは行くのは止めておきます。

いつくらいにできた三十三観音めぐりでしょうか?
石仏さんはそう古くは見えないけど、土台の石は古そうに見えます。
不動寺も金刀比羅神社も昔は大きな社寺だったのかもしれませんね。
百田山不動寺 伊賀市長田2801

さて、次に行くのは300mほど南の西蓮寺です。
ここは伊賀忍者回廊の札所です。
ところで。。。伊賀忍者や天正伊賀の乱に関してですが、
キッチリ私が理解できるように解説してくれている文書がなくて、
城マニアや忍者マニアや歴史マニアの方の話を総合して、私なりに理解しました。
あまり正確な文献もないみたいで、これが正解!とは言えないみたいです。
なので、後から「えっ、違うじゃん」と言うこともありますーー;
どうか、ご容赦ください。
<< 忍者回廊3-八 常住寺 忍者回廊3-十 西蓮寺 >>
今回は「道が狭い」とばかり書いていますが、ここは本当に狭かったです。
山沿って南北に走る道が昔ながらの道で、その道に沿って民家があるんだけど、
その道から山に向かって入ってきたところに百田山不動寺があります。
分かりにくい説明で済みませんーー;

お寺の境内から撮りました。
道は軽自動車がやっと通れるくらいの幅です。
相方が無理やり境内に車を入れました。
一応、車の轍は付いていたので絶対入ってはダメって訳ではなさそうです。
でも車は長田小学校だか長田保育園の裏辺りにある芭蕉の森公園の
駐車場に置いてくるのがベストだと思います。
その駐車場に行ってないので、どんな様子か分からないんですけどね。

意外に綺麗な本堂です。
創建も由緒もどんな出来事があったのかもサッパリ分かりませんが、
現在も地元の人に大切に管理されているのは分かります。

境内にはちゃんと寺務所もありました。
公民館的な社務所のようです。

味のある扁額。象?〇?山?違うかな?
波のような絵が描かれています。
雲の絵かな?と思ったけど、ヒントは金毘羅さん。
四国の本家の金刀比羅宮があるのが象頭山(琴平山)。
多分、正解だと思う!

どうも、不動さんより先に金刀比羅神社があったと推測。
金毘羅さんは海上航海の御利益だったよね。
伊賀に海はないけどねぇ。
でも、地図を見てると伊賀に限らず山の中に金毘羅神社あるよね。
なんか意味があるんだろうな。
扉の前に「どうぞ、お持ちください」と書かれて、お札が置いてありました。
賽銭箱に心添えを入れて、有難く頂きました。
出来れば由緒書きも欲しかったです。。。

中を覗いてビックリ!とても立派な須弥壇です。天女の絵も見えます。
建立は江戸時代かな?
ご本尊の不動明王は見えませんけどね。
波切不動明王の提灯。
やっぱり金毘羅さんと関係があるようです。

境内にあった灯籠。
変わった形の灯籠ですが、とても大きいんです、この灯籠。
きっと金毘羅さんと関係あると思って本家の四国の金刀比羅宮を調べていたら、
琴平駅の前によく似た灯籠を見つけました。
有形文化財の高灯籠は28mもあり、灯台の役目があったようです。
かなり金刀比羅宮をリスペクトしてます。

金毘羅神社はこの鳥居の先です。
かすかに建物らしきものが見えますので、行ってみます。
この時、相方は私に付き合うのが飽きたようで、見放されました。
仕方なく、一人で神社に向かいます。

鳥居の袂に芭蕉の句碑。
さすが松尾芭蕉のふるさと、あちこちに句碑があります。
松尾芭蕉忍者説がありますよね、情報収集の為に各地を旅したって。
本人が忍者だったかは不明ですが、彼は福地氏と言う忍者の末裔です。
忍者回廊でも所縁の城跡やお寺が載っているので、その内、行きますよ^^v

立派な石製の手水桶。
天保十三年と寄進者の寺田村、百田村の文字が見えます。
他にもいっぱい書いてあるけど、ちょっと読みにくいです。

意気揚々と階段を登り始めたのですが、意外にも急な階段でした。

やっと建物が見えてきました。
片側が竹林であちこちからタケノコが顔を出してます。
地元の人は採らないのかな?

神社らしくない普通の建物です。
老朽化して立て直したけど、資金の都合上、普通になったって感じでしょうか?

裸電球があるだけだけど、絵馬がたくさんあります。

これは多分、和歌の書かれた扇だったと思います。
三十六歌仙?にしては数が足りないね。

慶應の文字が見えます。
橋を見ると牛若丸と弁慶を思い出すけど、ちょっと違うようですね?
弓を持っているけど射手神社は関係あり?

こちらは何かの祭礼の様子かな?
わりと色彩が残っている絵馬があります。

槍で戦う二人の武士。
これから行く岡八幡宮は槍の又兵衛ゆかりの神社です。
これも関係はあるのかな?
昔の奉納絵馬を見るのが好きな私には楽しい参拝です。

本殿も普通の家のようになってます。
でも、小さな祠がポツンとあるだけかな?と思っていたので、
地元の皆さんが頑張っているんだと思いました。
忍者の末裔の方々の結束は今も強いのかも?

中はもうちょっとスッキリ片づけて欲しいかな^^;
多分ですけど、この山も比自山城の一部だと思います。
ここは百田村で、芭蕉の森公園の駐車場の辺りに百田藤兵衛の屋敷跡があります。
百田藤兵衛は伊賀十二人衆の一人で比自山城で、同じく伊賀十二人衆の
朝屋の福喜多将監と共に織田軍に徹底抗戦した忍者です。

百田藤兵衛はどこだか分からないけど、北東側の麓の長田丸で、
南側では福喜多将監が朝屋丸で蒲生氏郷、筒井順慶、堀秀政と戦ったそうです。
織田軍をかなり追い詰めたらしいですが、そこは戦のプロの大軍。
最後には敗戦してしまい、比自山城落城後は住民は残らず惨殺されたそうです。

今も地図を見ていると字で「百田」と「朝屋」があります。
福喜多氏館は現在も末裔の方が住んでおられます。
ちゃんと逃げ延びた人々がいたんですね。
伊賀の人々の転機は本能寺の変で織田信長が死んだこと。
と、それに伴い徳川家康を伊賀越えで助けたこと。

金刀比羅神社から三十三観音めぐりがありました。
出発地点はここだけど、終点はどこだろう?
これは行くのは止めておきます。

いつくらいにできた三十三観音めぐりでしょうか?
石仏さんはそう古くは見えないけど、土台の石は古そうに見えます。
不動寺も金刀比羅神社も昔は大きな社寺だったのかもしれませんね。


さて、次に行くのは300mほど南の西蓮寺です。
ここは伊賀忍者回廊の札所です。
ところで。。。伊賀忍者や天正伊賀の乱に関してですが、
キッチリ私が理解できるように解説してくれている文書がなくて、
城マニアや忍者マニアや歴史マニアの方の話を総合して、私なりに理解しました。
あまり正確な文献もないみたいで、これが正解!とは言えないみたいです。
なので、後から「えっ、違うじゃん」と言うこともありますーー;
どうか、ご容赦ください。
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