大阪母子旅 8
大阪天満宮 2022-6-5参拝 2023-1-28
寒いです。
数年ぶりに雪が積もりました。
ニューズにもなった新名神での大渋滞。
この地方では雪が1cm積もっても大渋滞が起きます。
雪の積もった日は会社でもほとんどの人が遅刻です。
中には出勤できない人もいます。
雪国の人には、それくらいで?と思われるでしょうね。
この地方ではスタットレスをはかない人がほとんどなのですよ。
そんな温暖な地域なんです。
1日目のコース
新世界・通天閣→大阪城
2日目のコース
真田丸跡(三光神社→心眼寺→興徳寺)→劇団四季オペラ座の怪人→露天神社
3日目のコース
大阪天満宮→堀川戎神社→成正寺→藤次寺→生國魂神社→齢延寺→源聖寺→高津宮
- 大阪天満宮 おおさかてんまんぐう -
創建は奈良時代の白雉元年(650年)の頃。
孝徳天皇が難波長柄豊崎宮を造営した時にその西北の守護神として
大将軍社を創建したのが始まりです。
延喜元年(901年)に菅原道真が太宰府左遷の道中で
この大将軍社に立ち寄り旅の無事を祈願されました。
道真公の死後、50年程経った天暦三年(949年)に、
この大将軍社の前に一夜にして七本の松が生え、
光を放ったと都に伝わり、村上天皇の勅命によって天満宮が建立されました。
その後、たびたびの火災に見舞われ全焼となることもありました。
現在の社殿は天保14年(1843年)に再建されたものです。
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寒いです。
数年ぶりに雪が積もりました。
ニューズにもなった新名神での大渋滞。
この地方では雪が1cm積もっても大渋滞が起きます。
雪の積もった日は会社でもほとんどの人が遅刻です。
中には出勤できない人もいます。
雪国の人には、それくらいで?と思われるでしょうね。
この地方ではスタットレスをはかない人がほとんどなのですよ。
そんな温暖な地域なんです。
1日目のコース
新世界・通天閣→大阪城
2日目のコース
真田丸跡(三光神社→心眼寺→興徳寺)→劇団四季オペラ座の怪人→露天神社
3日目のコース
大阪天満宮→堀川戎神社→成正寺→藤次寺→生國魂神社→齢延寺→源聖寺→高津宮
- 大阪天満宮 おおさかてんまんぐう -
創建は奈良時代の白雉元年(650年)の頃。
孝徳天皇が難波長柄豊崎宮を造営した時にその西北の守護神として
大将軍社を創建したのが始まりです。
延喜元年(901年)に菅原道真が太宰府左遷の道中で
この大将軍社に立ち寄り旅の無事を祈願されました。
道真公の死後、50年程経った天暦三年(949年)に、
この大将軍社の前に一夜にして七本の松が生え、
光を放ったと都に伝わり、村上天皇の勅命によって天満宮が建立されました。
その後、たびたびの火災に見舞われ全焼となることもありました。
現在の社殿は天保14年(1843年)に再建されたものです。
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本日は大阪天満宮が一つ目の参拝です。
「天満宮」と名が付くことから菅原道真を祀っていると分かります。
先に行った露天神社と同じく菅原道真が太宰府左遷の途中で立ち寄ったことから
菅原道真を祀る神社になりました。
この時に菅原道真が立ち寄ったのは太融寺と網敷天神もあります。
この二つも近くだったのですが、今回は時間が無くて参拝は諦めました。

地下鉄から来たら、またまた裏参道から入ることになりました。
裏参道には天満天神繁昌亭という寄席がありました。
大阪らしいですね。

裏参道入口。

表参道の表大門。

大門の天井には大きな注連縄と十二支が描かれたキレイな方位盤がありました。

大門を護る随身。

本殿。
都会の真ん中の神社はやっぱり広くはありません。
かつては「天神の森」と呼ばれる広大な緑が広がっていたそうです。

露天神社にも「天神の森」がありましたよね。
地図で見ても二つの神社は近いので、そりゃあもう凄い森があったんでしょうね。
どんな様子だったんだろうか?ジャングルみたいだったんだろうか?
なんて思いながら、ちょっと古地図を探してみました。
ネットってホントに便利です^^
江戸時代は…おや?すでに町の真ん中です。
大阪天満宮に天神の森があった頃はかなり古い時代のようです。
(露天神社はちょっと町から外れていて森があったようです)

まずは参拝。
祭神はもちろん菅原道真公。
元々は難波宮の西北の守護神として大将軍社がありました。
そこに天満宮を造営しました。
大将軍社は摂社として境内にあります。
あとでお参りに行きます。

平安時代延喜元年(901年)、菅原道真は太宰府左遷の途中、
大将軍社へ参拝に訪れ道中の無事を祈りました。
2年後に太宰府で道真公は亡くなります。

死後、約50年ほど経った天暦三年(949年)に大将軍社の前に
一夜にして七本の松が生え、夜毎にその梢を光らせたそうです。
その話を聞いた村上天皇は勅命によって社殿を造営し、
道真公の御霊をお祀りしました。

道真公の死後50年の間に左遷に関係した人物が次々と死んだり、
雷、大火、疫病などの天変地異が相次ぎ、
さらに清涼殿落雷事件が起こったりと、
天皇は道真公の怨霊をとても恐れていたんでしょうね。
たまたまなんだと思いますが、人を貶めたと言う罪悪感があったんでしょう。

境内にあります菅原道真の人生を人形劇にしたものを展示しています。

なかなかキレイな展示だったので、いくつかの場面を撮りました。
しかし、なんの場面だか忘れてしまいましたーー;

順番すらよく分かりません。

多分これが最後の場面かな?
亡骸を牛に引かせるところなんじゃないかと。。。
ちゃんと説明文を読んだら分かりやすいお話になっていたと思います。
記憶が定かではないですけど。

こちらは「登龍門」です。
本殿の東と西にある入口です。
両方とも登龍門と言います。

登龍門の説明。
難関を示す言葉になってます。
合格祈願をすると特別にこの登龍門をくぐらせてもらえる時があるそうですよ。
道真公にあやかって難関突破!って所ですね。
いつでもOKではないらしいので調べて行ってくださいね。

どこに鯉の滝登りの図柄があるのか?
扉付近をずっと探しておりましたが、どうやら入り口横の青銅製の灯籠にあるようです。
燈篭の屋根の部分に跳ね上がる鯉と胴の部分に巻き上がる龍がいます。
鯉が瀧を登りきると龍になるって中国の故事に由来します。
鯉のぼりの元になったお話です。

梅の絵馬が可愛いです。

梅の絵馬をかける所はちゃんと木が描かれています。
上の写真みたいに、満開になると木は見えなくなってしまいます。
梅の絵馬以外も、絵馬は鈴なり状態です。

本殿と神楽殿を繋ぐ渡り廊下。
木々の間から見えるビルで、ああ、ここは都会の真ん中なんだと思い出します。

本殿の後ろ側。
現在の本殿は天保14年(1843年)再建です。
天満宮はたびたびの火災に遭い、江戸時代の記録に残るものだけで7回です。
特に享保9年(1724年)の妙知焼けや、
天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱による大火では、全焼しました。

境内の奥の方にある白米社。
こちらは「はくまいしゃ」ではなく「しらよねしゃ」と言います。

説明板には由緒不明と書かれています。
お稲荷さんなんだから五穀豊穣で白米なんじゃない?

朱い提灯が目を引きます。

たくさんの提灯の裏には奉納者の名前が書かれています。
個人よりも会社の奉納が多いです。
五穀豊穣より商売繫盛ですね、大阪商人の信仰が厚かったのかな。

おや、回廊があります。行ってみよう!

「狐、天狗の爪研ぎ石」がありました。
磐座かと思いきや、古代人が勾玉や管玉を磨いた砥石でした。

そういえば大阪には玉造と言う地名が残っています。
古墳時代に玉造部という勾玉を製作する大和朝廷の職人たちの部署があったそうです。
石もよく見るといくつもの筋が見えます。
2000年くらい前にできた削り跡なんですね~なんか凄い~

白米稲荷社から境内の外に出られます。
境内から出ると高坐招魂社(祖霊社)があります。

ビルに囲まれた小さなお社は枝垂梅のある、どこか優雅な雰囲気です。
鳥居の先にある池は星合之池です。

星合池に架かる橋は愛嬌橋。
この橋の上で出会った男女は結ばれると言う伝説があるそうです。
七夕的な感じかな。
実際、ここでは「星愛七夕まつり」が行われます。

池の真ん中にカラフルな梅のオブジェ。

梅の花にこのお願いチップ?を投げ入れます。
これがいくらだったのか忘れました。
なんか、色にも意味があったような気がしますがこれも忘れました^^;

娘さん挑戦です。
しかし木のチップは軽いので思うようには投げられません。
結局、全部失敗しました;;

祖霊社。

梅と松の彫刻が見事です。
境内には星合茶寮と言う和風カフェじゃなくて、うどん屋さんがあります^^;

本殿の方へ戻りまして、十二社です。

十二柱の神様です。

こちらが元々の神様の大将軍社です。
道真公が神格化され、隅に追いやられた感がお気の毒です。

奈良時代 白雉元年(650年)孝徳天皇が難波長柄豊崎宮を造営した時に
都の西北を守る神として大将軍を祀りました。
ここに大将軍社が出来た頃は、まだ孤島だったんでしょうか?

麒麟の彫刻が素敵です。
でも、たくさんのお社があって、どこのお社かは分かりません。

御朱印です。
とてもシンプルな御朱印です。
大阪天満宮 HP >>
次は近くにある堀川戎神社へ行きます。
こちらの神社は天満宮の大将軍社よりも古い神社です。
<< 大阪母娘旅7 露天神社 大阪母娘旅9 堀川戎神社 >>

「天満宮」と名が付くことから菅原道真を祀っていると分かります。
先に行った露天神社と同じく菅原道真が太宰府左遷の途中で立ち寄ったことから
菅原道真を祀る神社になりました。
この時に菅原道真が立ち寄ったのは太融寺と網敷天神もあります。
この二つも近くだったのですが、今回は時間が無くて参拝は諦めました。

地下鉄から来たら、またまた裏参道から入ることになりました。
裏参道には天満天神繁昌亭という寄席がありました。
大阪らしいですね。

裏参道入口。

表参道の表大門。

大門の天井には大きな注連縄と十二支が描かれたキレイな方位盤がありました。

大門を護る随身。

本殿。
都会の真ん中の神社はやっぱり広くはありません。
かつては「天神の森」と呼ばれる広大な緑が広がっていたそうです。

露天神社にも「天神の森」がありましたよね。
地図で見ても二つの神社は近いので、そりゃあもう凄い森があったんでしょうね。
どんな様子だったんだろうか?ジャングルみたいだったんだろうか?
なんて思いながら、ちょっと古地図を探してみました。
ネットってホントに便利です^^
江戸時代は…おや?すでに町の真ん中です。
大阪天満宮に天神の森があった頃はかなり古い時代のようです。
(露天神社はちょっと町から外れていて森があったようです)

まずは参拝。
祭神はもちろん菅原道真公。
元々は難波宮の西北の守護神として大将軍社がありました。
そこに天満宮を造営しました。
大将軍社は摂社として境内にあります。
あとでお参りに行きます。

平安時代延喜元年(901年)、菅原道真は太宰府左遷の途中、
大将軍社へ参拝に訪れ道中の無事を祈りました。
2年後に太宰府で道真公は亡くなります。

死後、約50年ほど経った天暦三年(949年)に大将軍社の前に
一夜にして七本の松が生え、夜毎にその梢を光らせたそうです。
その話を聞いた村上天皇は勅命によって社殿を造営し、
道真公の御霊をお祀りしました。

道真公の死後50年の間に左遷に関係した人物が次々と死んだり、
雷、大火、疫病などの天変地異が相次ぎ、
さらに清涼殿落雷事件が起こったりと、
天皇は道真公の怨霊をとても恐れていたんでしょうね。
たまたまなんだと思いますが、人を貶めたと言う罪悪感があったんでしょう。

境内にあります菅原道真の人生を人形劇にしたものを展示しています。

なかなかキレイな展示だったので、いくつかの場面を撮りました。
しかし、なんの場面だか忘れてしまいましたーー;

順番すらよく分かりません。

多分これが最後の場面かな?
亡骸を牛に引かせるところなんじゃないかと。。。
ちゃんと説明文を読んだら分かりやすいお話になっていたと思います。
記憶が定かではないですけど。

こちらは「登龍門」です。
本殿の東と西にある入口です。
両方とも登龍門と言います。

登龍門の説明。
難関を示す言葉になってます。
合格祈願をすると特別にこの登龍門をくぐらせてもらえる時があるそうですよ。
道真公にあやかって難関突破!って所ですね。
いつでもOKではないらしいので調べて行ってくださいね。

どこに鯉の滝登りの図柄があるのか?
扉付近をずっと探しておりましたが、どうやら入り口横の青銅製の灯籠にあるようです。
燈篭の屋根の部分に跳ね上がる鯉と胴の部分に巻き上がる龍がいます。
鯉が瀧を登りきると龍になるって中国の故事に由来します。
鯉のぼりの元になったお話です。

梅の絵馬が可愛いです。

梅の絵馬をかける所はちゃんと木が描かれています。
上の写真みたいに、満開になると木は見えなくなってしまいます。
梅の絵馬以外も、絵馬は鈴なり状態です。

本殿と神楽殿を繋ぐ渡り廊下。
木々の間から見えるビルで、ああ、ここは都会の真ん中なんだと思い出します。

本殿の後ろ側。
現在の本殿は天保14年(1843年)再建です。
天満宮はたびたびの火災に遭い、江戸時代の記録に残るものだけで7回です。
特に享保9年(1724年)の妙知焼けや、
天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱による大火では、全焼しました。

境内の奥の方にある白米社。
こちらは「はくまいしゃ」ではなく「しらよねしゃ」と言います。

説明板には由緒不明と書かれています。
お稲荷さんなんだから五穀豊穣で白米なんじゃない?

朱い提灯が目を引きます。

たくさんの提灯の裏には奉納者の名前が書かれています。
個人よりも会社の奉納が多いです。
五穀豊穣より商売繫盛ですね、大阪商人の信仰が厚かったのかな。

おや、回廊があります。行ってみよう!

「狐、天狗の爪研ぎ石」がありました。
磐座かと思いきや、古代人が勾玉や管玉を磨いた砥石でした。

そういえば大阪には玉造と言う地名が残っています。
古墳時代に玉造部という勾玉を製作する大和朝廷の職人たちの部署があったそうです。
石もよく見るといくつもの筋が見えます。
2000年くらい前にできた削り跡なんですね~なんか凄い~

白米稲荷社から境内の外に出られます。
境内から出ると高坐招魂社(祖霊社)があります。

ビルに囲まれた小さなお社は枝垂梅のある、どこか優雅な雰囲気です。
鳥居の先にある池は星合之池です。

星合池に架かる橋は愛嬌橋。
この橋の上で出会った男女は結ばれると言う伝説があるそうです。
七夕的な感じかな。
実際、ここでは「星愛七夕まつり」が行われます。

池の真ん中にカラフルな梅のオブジェ。

梅の花にこのお願いチップ?を投げ入れます。
これがいくらだったのか忘れました。
なんか、色にも意味があったような気がしますがこれも忘れました^^;

娘さん挑戦です。
しかし木のチップは軽いので思うようには投げられません。
結局、全部失敗しました;;

祖霊社。

梅と松の彫刻が見事です。
境内には星合茶寮と言う和風カフェじゃなくて、うどん屋さんがあります^^;

本殿の方へ戻りまして、十二社です。

十二柱の神様です。

こちらが元々の神様の大将軍社です。
道真公が神格化され、隅に追いやられた感がお気の毒です。

奈良時代 白雉元年(650年)孝徳天皇が難波長柄豊崎宮を造営した時に
都の西北を守る神として大将軍を祀りました。
ここに大将軍社が出来た頃は、まだ孤島だったんでしょうか?

麒麟の彫刻が素敵です。
でも、たくさんのお社があって、どこのお社かは分かりません。

御朱印です。
とてもシンプルな御朱印です。

次は近くにある堀川戎神社へ行きます。
こちらの神社は天満宮の大将軍社よりも古い神社です。
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