信貴山と神仏 9
水神を祀る廣瀬大社 2022-5-7参拝 2022-9-9
まだまだコロナが減っていかないですね。
巷の人々同様に「もういいかな~」と思い始めてきました。
高齢の母も前は「コロナが凄いからお出かけは今度」と言っていたのに
「いつ遊びに連れて行ってくれるの?」と言い出しました ^^;
今回のコース
朝護孫寺→龍田大社→片岡山 達磨寺→広瀬大社
- 廣瀬大社 ひろせたいしゃ -
創建は崇神天皇9年。
広瀬の河合の里長の廣瀬臣藤時に託宣があり、水足池と呼ばれる沼地が
一夜で陸地に変化し橘が数多く生えたことが天皇に伝わり、
その地に大御膳神として社殿を建てて祀ったのが始まり。
式内社(名神大社)、二十二社の中七社の一社。
龍田の風神・広瀬の水神として並び称されました。
廣瀬大社 HP >>
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まだまだコロナが減っていかないですね。
巷の人々同様に「もういいかな~」と思い始めてきました。
高齢の母も前は「コロナが凄いからお出かけは今度」と言っていたのに
「いつ遊びに連れて行ってくれるの?」と言い出しました ^^;
今回のコース
朝護孫寺→龍田大社→片岡山 達磨寺→広瀬大社
- 廣瀬大社 ひろせたいしゃ -
創建は崇神天皇9年。
広瀬の河合の里長の廣瀬臣藤時に託宣があり、水足池と呼ばれる沼地が
一夜で陸地に変化し橘が数多く生えたことが天皇に伝わり、
その地に大御膳神として社殿を建てて祀ったのが始まり。
式内社(名神大社)、二十二社の中七社の一社。
龍田の風神・広瀬の水神として並び称されました。

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達磨寺から廣瀬大社まで6km弱でこれまたすぐ着きます。
龍田大社と違って古い集落を抜けていくので、道が細いです。
神社の隣に大きな会社があって、駐車場へ入る入り口に
その会社の看板があるので神社の駐車場か会社の駐車場か迷いました。
鳥居の横だし、たぶん神社の駐車場なんだと思います。

一の鳥居。
駐車場から来ると鳥居を入った所に出てしまいます。
なので参道途中からの鳥居。

廣瀬大社にはうっそうと茂った鎮守の杜があり、
参道は350mも続きます。
しかし大きな森かと思いきや、細長い森で、
木々の隙間から隣の会社や家や畑が見えてしまいます。

由緒書き。
ちょっと薄くなっちゃって見えないです。
祭神は若宇加能売命(わかうかのめのみこと)
または廣瀬大忌神(ひろせおおいみのかみ)です。
大和盆地を流れるいくつもの川が合流する地点に祀られた水神です。
日本書紀に風神を龍田立野に、大忌神を広瀬河曲に祀ったと記されています。
つまり、とっても凄い神様なのであります。
戦乱では焼き討ちに遭い、神領を没収されたりもしました。

参道を歩いて行くと境内社があります。
まずは日吉社。

階段を上って下りた所にお社です。
小さなお社が塀に囲われています。

次に日の丸大明神。
廣瀬大社のHPには稲荷社と書いてあります。
お狐さんがいますね。

新しい拝殿の向こうにお社が見えます。

参道の向こうに二の鳥居が見えてきました。

本殿に行く前に、参道の左側に橋があります。
この橋は参道の隣のを流れる小さな川にかかっています。
橋を渡ると水分社があります。
今回は行ってません。

こちらは御霊社。
廣瀬大社にはたくさんの境内社がありますが、
川合の集落の中にはいくつかの境外社もあります。
廣瀬大社の宝物の室町時代の絵図には広い境内が描かれています。

祓戸社。
近くには古墳が点在し、宮堂遺跡があります。
宮堂遺跡は聖徳太子創建の定林寺があったのではと言われています。
また遺跡からは縄文時代からの土器や石器が見つかっており、
古くから集落があったことが分かります。

ロシアの大砲。
最近巡った奈良の神社でいくつか見ました。
戦利品なんだろうけど、この大砲でどれだけの人が死んだかと思うと
ちょっと悲しい気分になります。
定林寺は現在も近くに存在します。
昔のお寺は戦国時代に焼失した後、現在の地に再興されたようです。

木陰の参道から明るい境内へ。
室町時代には神領は500余町ありましたが、永正3年(1506年)に細川政元の家臣・赤沢朝経の
焼き討ちによって宝物や古文書が焼失し、神領が横領されました。
天正年間(1573年 - 1593年)には豊臣秀長によって神領が没収されてしまいます。
戦国時代は社寺にとって苦難の時ですね。

廣瀬大社の由緒です。
写真は例祭の砂かけ祭り。
水神なのに、なんで砂?と思ったら砂を水に見立てているんです。

拝殿。
桧皮葺きの素敵な拝殿は、明治時代の再建です。
ここの広い場所で砂かけ祭りが行われます。

立派な拝殿。大きな太鼓が二つも置いてあります。
崇神天皇9年(前89年)、廣瀬の河合の里長の廣瀬臣藤時に託宣があり、
水足池と呼ばれる沼地が一夜で陸地に変化し橘が数多く生えたことが天皇に伝わり、
その地に社殿を建てて祀られました。(当社縁起)

拝殿の奥に瑞垣に囲まれた本殿があります。
日本書紀には天武天皇4年4月10日(675年)に
小錦中間人連大蓋を遣わし大山中曽根連韓犬を斎主として
大忌神を祀られたことが書かれています。
これが大忌祭の始まりと伝わります。

天武天皇以降、御歴代の天皇より、雨風、豊穣などの祈願がされ、
また禍害あるごとに、特別の奉幣を受けました。
龍田大社と共に国家の重要な神社とされ、
延喜式 神名帳では「廣瀬坐和加宇加乃売命神社 名神大 月次新嘗」として、
名神大社に列するとともに朝廷の月次祭・新嘗祭で幣帛に預かりました。
風神を龍田の竜野に 大忌神を廣瀬の河曲に祀る
~日本書紀 天武天皇4年~

本殿。
主祭神は若宇加能売命、または廣瀬大忌神。
「売」が付くのは女性の神様です。
伊勢神宮の豊宇気比売大神、伏見稲荷の宇加之御魂神と同神とされます。
なので水の神様なんだけど五穀豊穣の神でもあります。
春日造りの美しい本殿は 正徳元年(1711年)再建。
平成12年に修理され、朱色が鮮やかによみがえりました。
残念ながら、チラリとしか見えませんけど。

四角い池に見えたので写真を撮ったけど、池ではなかったです。
境内の奥の方に水足池の名残の池がるので、それかと思ったけど
全然違いますね。。。
ここの地名は河合町川合。
たくさんの川が合流する場所で、川合です。
マップを見ると、大小の川がいっぱいです。
室町時代の旧絵地図には大きな池が描かれており、
水足池はだんだん縮小していったようですね。
旧絵地図は廣瀬大社のHPで見られます。

神馬舎。

暗くてあまり見えませんね。

鳥居の右の建物が社務所。
ご朱印を頂きました。

御朱印。

本日の参拝終了。
龍田大社もですが、神社の歴史は古いです。
相殿神の櫛玉命は饒速日命を指し、社家の樋口氏は
饒速日命を祖神とする物部氏の末裔だそうです。
2000年の間、脈々と受け継がれてきた歴史を思いながら
鎮守の杜を抜けて帰ります。
廣瀬大社 HP >>
信貴山と神仏 おわり
続きまして、6月に娘と行った大阪親子旅を書いていきます。
劇団四季のオペラ座の怪人を見たり、大阪城に行きました。
もちろん、社寺巡りもしてきました^^
<< 信貴山と神仏8 達磨寺 大阪母子旅1 新世界 >>

龍田大社と違って古い集落を抜けていくので、道が細いです。
神社の隣に大きな会社があって、駐車場へ入る入り口に
その会社の看板があるので神社の駐車場か会社の駐車場か迷いました。
鳥居の横だし、たぶん神社の駐車場なんだと思います。

一の鳥居。
駐車場から来ると鳥居を入った所に出てしまいます。
なので参道途中からの鳥居。

廣瀬大社にはうっそうと茂った鎮守の杜があり、
参道は350mも続きます。
しかし大きな森かと思いきや、細長い森で、
木々の隙間から隣の会社や家や畑が見えてしまいます。

由緒書き。
ちょっと薄くなっちゃって見えないです。
祭神は若宇加能売命(わかうかのめのみこと)
または廣瀬大忌神(ひろせおおいみのかみ)です。
大和盆地を流れるいくつもの川が合流する地点に祀られた水神です。
日本書紀に風神を龍田立野に、大忌神を広瀬河曲に祀ったと記されています。
つまり、とっても凄い神様なのであります。
戦乱では焼き討ちに遭い、神領を没収されたりもしました。

参道を歩いて行くと境内社があります。
まずは日吉社。

階段を上って下りた所にお社です。
小さなお社が塀に囲われています。

次に日の丸大明神。
廣瀬大社のHPには稲荷社と書いてあります。
お狐さんがいますね。

新しい拝殿の向こうにお社が見えます。

参道の向こうに二の鳥居が見えてきました。

本殿に行く前に、参道の左側に橋があります。
この橋は参道の隣のを流れる小さな川にかかっています。
橋を渡ると水分社があります。
今回は行ってません。

こちらは御霊社。
廣瀬大社にはたくさんの境内社がありますが、
川合の集落の中にはいくつかの境外社もあります。
廣瀬大社の宝物の室町時代の絵図には広い境内が描かれています。

祓戸社。
近くには古墳が点在し、宮堂遺跡があります。
宮堂遺跡は聖徳太子創建の定林寺があったのではと言われています。
また遺跡からは縄文時代からの土器や石器が見つかっており、
古くから集落があったことが分かります。

ロシアの大砲。
最近巡った奈良の神社でいくつか見ました。
戦利品なんだろうけど、この大砲でどれだけの人が死んだかと思うと
ちょっと悲しい気分になります。
定林寺は現在も近くに存在します。
昔のお寺は戦国時代に焼失した後、現在の地に再興されたようです。

木陰の参道から明るい境内へ。
室町時代には神領は500余町ありましたが、永正3年(1506年)に細川政元の家臣・赤沢朝経の
焼き討ちによって宝物や古文書が焼失し、神領が横領されました。
天正年間(1573年 - 1593年)には豊臣秀長によって神領が没収されてしまいます。
戦国時代は社寺にとって苦難の時ですね。

廣瀬大社の由緒です。
写真は例祭の砂かけ祭り。
水神なのに、なんで砂?と思ったら砂を水に見立てているんです。

拝殿。
桧皮葺きの素敵な拝殿は、明治時代の再建です。
ここの広い場所で砂かけ祭りが行われます。

立派な拝殿。大きな太鼓が二つも置いてあります。
崇神天皇9年(前89年)、廣瀬の河合の里長の廣瀬臣藤時に託宣があり、
水足池と呼ばれる沼地が一夜で陸地に変化し橘が数多く生えたことが天皇に伝わり、
その地に社殿を建てて祀られました。(当社縁起)

拝殿の奥に瑞垣に囲まれた本殿があります。
日本書紀には天武天皇4年4月10日(675年)に
小錦中間人連大蓋を遣わし大山中曽根連韓犬を斎主として
大忌神を祀られたことが書かれています。
これが大忌祭の始まりと伝わります。

天武天皇以降、御歴代の天皇より、雨風、豊穣などの祈願がされ、
また禍害あるごとに、特別の奉幣を受けました。
龍田大社と共に国家の重要な神社とされ、
延喜式 神名帳では「廣瀬坐和加宇加乃売命神社 名神大 月次新嘗」として、
名神大社に列するとともに朝廷の月次祭・新嘗祭で幣帛に預かりました。
風神を龍田の竜野に 大忌神を廣瀬の河曲に祀る
~日本書紀 天武天皇4年~

本殿。
主祭神は若宇加能売命、または廣瀬大忌神。
「売」が付くのは女性の神様です。
伊勢神宮の豊宇気比売大神、伏見稲荷の宇加之御魂神と同神とされます。
なので水の神様なんだけど五穀豊穣の神でもあります。
春日造りの美しい本殿は 正徳元年(1711年)再建。
平成12年に修理され、朱色が鮮やかによみがえりました。
残念ながら、チラリとしか見えませんけど。

四角い池に見えたので写真を撮ったけど、池ではなかったです。
境内の奥の方に水足池の名残の池がるので、それかと思ったけど
全然違いますね。。。
ここの地名は河合町川合。
たくさんの川が合流する場所で、川合です。
マップを見ると、大小の川がいっぱいです。
室町時代の旧絵地図には大きな池が描かれており、
水足池はだんだん縮小していったようですね。
旧絵地図は廣瀬大社のHPで見られます。

神馬舎。

暗くてあまり見えませんね。

鳥居の右の建物が社務所。
ご朱印を頂きました。

御朱印。

本日の参拝終了。
龍田大社もですが、神社の歴史は古いです。
相殿神の櫛玉命は饒速日命を指し、社家の樋口氏は
饒速日命を祖神とする物部氏の末裔だそうです。
2000年の間、脈々と受け継がれてきた歴史を思いながら
鎮守の杜を抜けて帰ります。

信貴山と神仏 おわり
続きまして、6月に娘と行った大阪親子旅を書いていきます。
劇団四季のオペラ座の怪人を見たり、大阪城に行きました。
もちろん、社寺巡りもしてきました^^
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