信貴山と神仏 8
だるま発祥の達磨寺 2022-5-7参拝 2022-9-3
ウォーキング・デッドの現在配信中のエピソードは全部見ました!
160話以上を一気見したら、夢にまで出てきました。
寝ててもゾンビに驚かされて、ほんっとに安まらないです;;
でもね~登場人物がカッコイイんです♡
ラストが待ち遠しい!
ちょっとサバイバルできるようになりたいな~と影響を受けています。
あと、今更ながら英語が分かるようになりたいなと思い、
とりあえずスマホに英語のアプリを入れてみました^^;
今回のコース
朝護孫寺→龍田大社→片岡山 達磨寺→広瀬大社
- 片岡山 達磨寺 かたおかざん だるまじ -
創建は聖徳太子の時代。
推古天皇21年(613年)の冬、聖徳太子が片岡山で倒れていた飢人に衣食を施したという
片岡山飢人伝説が達磨寺の起源です。
その飢人は死んでしまうのですが達磨大師の化身という事になり、
達磨寺が創建されました。
本堂の下には古墳時代の円墳があるそうです。
達磨寺 HP >>
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ウォーキング・デッドの現在配信中のエピソードは全部見ました!
160話以上を一気見したら、夢にまで出てきました。
寝ててもゾンビに驚かされて、ほんっとに安まらないです;;
でもね~登場人物がカッコイイんです♡
ラストが待ち遠しい!
ちょっとサバイバルできるようになりたいな~と影響を受けています。
あと、今更ながら英語が分かるようになりたいなと思い、
とりあえずスマホに英語のアプリを入れてみました^^;
今回のコース
朝護孫寺→龍田大社→片岡山 達磨寺→広瀬大社
- 片岡山 達磨寺 かたおかざん だるまじ -
創建は聖徳太子の時代。
推古天皇21年(613年)の冬、聖徳太子が片岡山で倒れていた飢人に衣食を施したという
片岡山飢人伝説が達磨寺の起源です。
その飢人は死んでしまうのですが達磨大師の化身という事になり、
達磨寺が創建されました。
本堂の下には古墳時代の円墳があるそうです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
龍田大社から達磨寺にやってきました。
3km弱ですぐに着きました。
達磨寺は聖徳太子ゆかりのお寺で、お寺のマスコットは聖徳太子の飼い犬の雪丸です。
ずいぶん前に王寺駅に行った時、妙な犬があちこちに書いてあると思ったら
聖徳太子の犬で、王寺町のゆるキャラになってました。

達磨寺は国道沿いで分かりやすく、駐車場も広いです。
きっと観光バスも来るんだと思います。

境内は広々としていて、お堂も新しいです。
山門にも「ガイド」の幟がありましたが、お堂に来るとすぐボランティアガイドの方が
声をかけてくれます。
ガイドしてもらえるのはありがたいのですが、時間はどれくらいある?と聞かれ、
多く見て20分(それでも待っている相方には長いよね)と答えたら
最低でも30分と言われました^^;
しっかり説明で2時間、普通の説明で1時間、簡単説明で30分だったと思います。
なるべく早く説明してもらうことになりました。

聖徳太子像。建治3年(1277年)作。重要文化財。
写真OKなのは嬉しいです。
画像がないと忘れちゃうんですよね~

達磨大師。 永享2年(1430年)作。重要文化財。
水墨画家として著名な周文が彩色しているそうですが、
もう何色か全く分かりません;;

ご本尊の千手観音。 室町時代作。こちらは重要文化財ではないです。
しかし、この手の数!これぞ千手!と思いきや500弱だそうです。

これだけの手をくっつけたのも凄いですね。
たくさんの手を見ていると、なんだか怖くなってきます。
救いの手のはずなんですけどね。心がキレイじゃないからかもね^^;

手のひらには目が掘り込まれています。
水晶を嵌め込んだ玉眼です。
仕事が細かい!

ガイドさんも時間を気にしながら、駆け足で説明してくれました。
見るだけよりも、やっぱり良かったです。
ガイドを希望の方は初めに時間を言っておくと良いですよ。

境内の一角にあった竹。

説明がありました。
達磨寺の創建に繋がった「片岡山飢人御慰問」ですが、
日本書紀の聖徳太子伝記のくだりに書かれています。
推古天皇21年(西暦613年)12月1日に太子が片岡山のほとりを馬で通りかかった時、
道端に飢えと寒さに息絶え絶えの人が座って居り、
何故か乗って居られた黒駒がピタッと脚を止めました。

室町時代の石塔。
太子は、哀れに思われと食物の飲物を与えられ、着て居られた紫の御袍を着せかけられ
”安らかにお休みなさい”と仰せになり心を残し乍らその場を立ち去られました。
翌日、飢人の様子を視されられたところ、その飢人は既に死んで居り
太子は大いに悲しまれ、その場に手厚く葬られました。

石塔の説明。
それからしばらくして墓の様子を見に行かせると、死体は消えており、
衣服だけがきちんとたたまれて棺の上に置かれていました。
これを知った里人は、あの異人は達磨大師の生まれ変わりに相違ないといい、
聖徳太子が自ら刻んだ達磨像を祀りました。
この話は達磨寺のHPに漫画になって載っています。

問答石の達磨石。
なんで飢人が達磨大師なんだろう?と思いますよね?
それは、中国天台宗の祖思師禅師が、中国の衡州衡山道場において
達磨大師に”東海に生まれ更りて正法を宣揚すべし”と言ったそうで、
思師禅師は日本で聖徳太子に生まれ変わる事になっていたそうです。
達磨大師は先に日本に渡り、聖徳太子が生まれるまで
奥州待島(松島)待ったと云う伝承があります。
片岡山辺りで両者が対面する事は、衡山道場で既に約束されていたんですって。

息絶え絶えでも歌を詠み交わしたのか。。。
せっかく生まれ変わって出会えてもあっと言う間に死んでしまっては
達磨大師、遅かりしって思うのは私だけ?
太子石の写真は撮り忘れました。
歌を詠み交わすには10mは離れすぎじゃ?

達磨寺中興記石幢 高さ185cmの八角石柱。(重要重要文化財)
文安5年(1448年)建立。
各面に達磨寺の由緒が刻まれています。
本堂背後に立っているので、見逃してしまわないように ^^

石碑の説明。
由緒ある達磨寺ですが、寺院として整うのは鎌倉時代以降です。
焼き討ちに二度遭い、衰亡しましたが都度、再興してきました。

石幢の下から発掘された石碑。
平成の本堂建て替えの時には、地下からたくさんの遺物が発掘されました。
青磁香炉や石製宝篋印塔。その中には水晶製五輪塔型舎利容器が入っていました。
確か、本堂で公開されていたような。。。写真を撮らなかったので忘れました。

旧本堂の屋根の瓦製露盤。
元禄5年(1692年)作。

瓦製露盤の説明。
達磨寺の境内には3つの古墳があります。
本堂の下にある古墳が飢人(達磨大師)の墓と言われています。
本当に聖徳太子はここを通っていたのかなぁ?
聖徳太子はいなかったとも言われていますが、誰かはいたんでしょうからね。

雪丸像。
こんなタレ耳だったか怪しいと思うけど。
本堂裏の隅っこにある古墳が雪丸の墓で、
昔はその古墳の上に雪丸が祀られていました。
その古墳、石室に地下道があり、法隆寺と繋がっているという
都市伝説的な言い伝えがありました。

雪丸の説明。
そうです、聖徳太子の犬はそんじょそこらの犬とは違うんですよ~
言葉を理解し、お経が読めて、自分を葬る場所まで指定したと言う。
ちょっと盛り過ぎ^^;

片岡八郎、春利の墓。
知らない武将です。
戦乱の世に生き、散っていったツワモノたちです。

説明。

松永久秀の墓。
信貴山城の城主ですね。
隣の墓の片岡春利の宿敵です。
並んで眠っているって、なんだか不思議。

説明。
達磨寺は嘉禄年間(1225年 - 1228年)には興福寺によって焼き討ちされ、
復興した後、永禄年間(1558年 - 1570年)には松永久秀によって焼かれます。
焼いた本人の墓がここにあるって、皮肉なもんですね。

達磨寺には遺物はたくさん残っているのですが、
お堂も新しいし、境内はすごくキレイに整備されているし、
昔はどんなお寺だったのか、ちょっと想像できなかったです。
それでも聖徳太子ゆかりの遺物を見ながら、
昔に思いを馳せるのは楽しいです。
最後にご朱印を頂きました。
境内の隅におみやげ物なども売っている売店で頂けます。

聖徳太子の御朱印。

達磨大師の御朱印。

雪丸の御朱印もありました^^;
御朱印は4種類あって厳選して3種類。
もう一つも貰っておけよ~と言う声が聞こえてきそうですね。
売店のおばちゃんに「あんまり欲張ったらダメかな」と言いながら3つ頼んだら
「3つもたいがいだけどね」と笑われました^^
達磨寺 HP >>
地元の方が大事にしているお寺なんだなと思います。
さて、次で最後ですが広瀬大社です。
ここは水の神様です。
<< 信貴山と神仏7 龍田大社 信貴山と神仏9 廣瀬大社 >>

3km弱ですぐに着きました。
達磨寺は聖徳太子ゆかりのお寺で、お寺のマスコットは聖徳太子の飼い犬の雪丸です。
ずいぶん前に王寺駅に行った時、妙な犬があちこちに書いてあると思ったら
聖徳太子の犬で、王寺町のゆるキャラになってました。

達磨寺は国道沿いで分かりやすく、駐車場も広いです。
きっと観光バスも来るんだと思います。

境内は広々としていて、お堂も新しいです。
山門にも「ガイド」の幟がありましたが、お堂に来るとすぐボランティアガイドの方が
声をかけてくれます。
ガイドしてもらえるのはありがたいのですが、時間はどれくらいある?と聞かれ、
多く見て20分(それでも待っている相方には長いよね)と答えたら
最低でも30分と言われました^^;
しっかり説明で2時間、普通の説明で1時間、簡単説明で30分だったと思います。
なるべく早く説明してもらうことになりました。

聖徳太子像。建治3年(1277年)作。重要文化財。
写真OKなのは嬉しいです。
画像がないと忘れちゃうんですよね~

達磨大師。 永享2年(1430年)作。重要文化財。
水墨画家として著名な周文が彩色しているそうですが、
もう何色か全く分かりません;;

ご本尊の千手観音。 室町時代作。こちらは重要文化財ではないです。
しかし、この手の数!これぞ千手!と思いきや500弱だそうです。

これだけの手をくっつけたのも凄いですね。
たくさんの手を見ていると、なんだか怖くなってきます。
救いの手のはずなんですけどね。心がキレイじゃないからかもね^^;

手のひらには目が掘り込まれています。
水晶を嵌め込んだ玉眼です。
仕事が細かい!

ガイドさんも時間を気にしながら、駆け足で説明してくれました。
見るだけよりも、やっぱり良かったです。
ガイドを希望の方は初めに時間を言っておくと良いですよ。

境内の一角にあった竹。

説明がありました。
達磨寺の創建に繋がった「片岡山飢人御慰問」ですが、
日本書紀の聖徳太子伝記のくだりに書かれています。
推古天皇21年(西暦613年)12月1日に太子が片岡山のほとりを馬で通りかかった時、
道端に飢えと寒さに息絶え絶えの人が座って居り、
何故か乗って居られた黒駒がピタッと脚を止めました。

室町時代の石塔。
太子は、哀れに思われと食物の飲物を与えられ、着て居られた紫の御袍を着せかけられ
”安らかにお休みなさい”と仰せになり心を残し乍らその場を立ち去られました。
翌日、飢人の様子を視されられたところ、その飢人は既に死んで居り
太子は大いに悲しまれ、その場に手厚く葬られました。

石塔の説明。
それからしばらくして墓の様子を見に行かせると、死体は消えており、
衣服だけがきちんとたたまれて棺の上に置かれていました。
これを知った里人は、あの異人は達磨大師の生まれ変わりに相違ないといい、
聖徳太子が自ら刻んだ達磨像を祀りました。
この話は達磨寺のHPに漫画になって載っています。

問答石の達磨石。
なんで飢人が達磨大師なんだろう?と思いますよね?
それは、中国天台宗の祖思師禅師が、中国の衡州衡山道場において
達磨大師に”東海に生まれ更りて正法を宣揚すべし”と言ったそうで、
思師禅師は日本で聖徳太子に生まれ変わる事になっていたそうです。
達磨大師は先に日本に渡り、聖徳太子が生まれるまで
奥州待島(松島)待ったと云う伝承があります。
片岡山辺りで両者が対面する事は、衡山道場で既に約束されていたんですって。

息絶え絶えでも歌を詠み交わしたのか。。。
せっかく生まれ変わって出会えてもあっと言う間に死んでしまっては
達磨大師、遅かりしって思うのは私だけ?
太子石の写真は撮り忘れました。
歌を詠み交わすには10mは離れすぎじゃ?

達磨寺中興記石幢 高さ185cmの八角石柱。(重要重要文化財)
文安5年(1448年)建立。
各面に達磨寺の由緒が刻まれています。
本堂背後に立っているので、見逃してしまわないように ^^

石碑の説明。
由緒ある達磨寺ですが、寺院として整うのは鎌倉時代以降です。
焼き討ちに二度遭い、衰亡しましたが都度、再興してきました。

石幢の下から発掘された石碑。
平成の本堂建て替えの時には、地下からたくさんの遺物が発掘されました。
青磁香炉や石製宝篋印塔。その中には水晶製五輪塔型舎利容器が入っていました。
確か、本堂で公開されていたような。。。写真を撮らなかったので忘れました。

旧本堂の屋根の瓦製露盤。
元禄5年(1692年)作。

瓦製露盤の説明。
達磨寺の境内には3つの古墳があります。
本堂の下にある古墳が飢人(達磨大師)の墓と言われています。
本当に聖徳太子はここを通っていたのかなぁ?
聖徳太子はいなかったとも言われていますが、誰かはいたんでしょうからね。

雪丸像。
こんなタレ耳だったか怪しいと思うけど。
本堂裏の隅っこにある古墳が雪丸の墓で、
昔はその古墳の上に雪丸が祀られていました。
その古墳、石室に地下道があり、法隆寺と繋がっているという
都市伝説的な言い伝えがありました。

雪丸の説明。
そうです、聖徳太子の犬はそんじょそこらの犬とは違うんですよ~
言葉を理解し、お経が読めて、自分を葬る場所まで指定したと言う。
ちょっと盛り過ぎ^^;

片岡八郎、春利の墓。
知らない武将です。
戦乱の世に生き、散っていったツワモノたちです。

説明。

松永久秀の墓。
信貴山城の城主ですね。
隣の墓の片岡春利の宿敵です。
並んで眠っているって、なんだか不思議。

説明。
達磨寺は嘉禄年間(1225年 - 1228年)には興福寺によって焼き討ちされ、
復興した後、永禄年間(1558年 - 1570年)には松永久秀によって焼かれます。
焼いた本人の墓がここにあるって、皮肉なもんですね。

達磨寺には遺物はたくさん残っているのですが、
お堂も新しいし、境内はすごくキレイに整備されているし、
昔はどんなお寺だったのか、ちょっと想像できなかったです。
それでも聖徳太子ゆかりの遺物を見ながら、
昔に思いを馳せるのは楽しいです。
最後にご朱印を頂きました。
境内の隅におみやげ物なども売っている売店で頂けます。

聖徳太子の御朱印。

達磨大師の御朱印。

雪丸の御朱印もありました^^;
御朱印は4種類あって厳選して3種類。
もう一つも貰っておけよ~と言う声が聞こえてきそうですね。
売店のおばちゃんに「あんまり欲張ったらダメかな」と言いながら3つ頼んだら
「3つもたいがいだけどね」と笑われました^^

地元の方が大事にしているお寺なんだなと思います。
さて、次で最後ですが広瀬大社です。
ここは水の神様です。
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